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社会が作り上げた障害者のイメージが私たちを縛っている

ここまであからさまに「障害者は社会からいなくなった方がいい」「障害者は不幸しか生み出さない」と言われ、そして実際に19人もの命が奪われることなんてあっただろうか。少なくとも私が生きてきた28年間の中ではこの相模原事件が初めてだった。

私自身、小学校中学校は地元の学校に通っていて、周りの同級生から悪口を言われたことはないし、実際思っていたとしても誰も口に出してはいなかった。電車などで知的障害のある方をジロジロ見たりクスクスと笑っている人を見かけることはあったが、面と向かって障害者を悪く言う人に私は出会ったことがない。

そのため私はこの事件が起きたとき心底驚いたし、何よりも恐怖を感じたのは植松被告の行った行為に対しての社会の反応だった。これまで障害者について何も言ってこなかったような人たちが掲示板などに植松被告のやったことを肯定するかのような書き込みをしていたり、擁護するような人もいた。そんな社会の声を目の当たりにした時から、「みんな言わなかっただけで本当は植松と同じことを思ってたんだ」「私の周りの身近な人も同じ考えだったらどうしよう」「すれ違う人がそのような考えの人だったら?」「植松被告の行動に感化された人に、ある日突然襲われたらどうしよう」と私はとても怖かったし、同じように不安を覚えた仲間もきっといるだろう。すれ違った人全てが「植松」に見えてしまうくらい、人間不信にもなった。植松被告をはじめとした世間の方たちが抱く「障害者=不幸しか生まない」というイメージが作り上げられていく背景には、やはり彼らの人生の中で障害者と関わったことがあるかどうかが大きく関係していると思う。

では障害者と聞いて「不幸しか生まない」以外だったら人々はどんなふうにイメージするのだろう。優等生?努力家?大人しい?謙虚? そんなものはただの空想にすぎないと私は思う。世間の人たちが勝手に作り上げた「障害者=綺麗な人たち」という偏見から少しでも外れてしまったら、途端に「悪」になってしまう。私はそれがとても嫌だった。勝手に作り上げた「障害者象」で私たちを縛らないでほしい。そもそも障害者だっていろんな人がいる。そのことを分かってほしい。

裁判で植松被告は死刑になってしまったが、これでは何の解決にもなっていないと思う。 きっと「障害者」という言葉があるせいで「不幸しか生まない人たち」と「綺麗な人たち」という極端なイメージだけが一人歩きしている気がする。「いろんな人がいる」という考えに人々が至るには、障害者も健常者も関係ないインクルーシブな社会にすることだと思う。物心がつく頃から当たり前のように障害者と健常者が同じ環境にいることで「障害者」という言葉や概念そのものがなくなっていくだろうし、そうなれば障害者だからという理由で排除されることもなくなり、一番最初に目につくものが「障害」ではなくなることで、私たちを一人の人間として見てもらえる社会になる。私は私が生きているうちにそんな社会になってほしいし、そんな社会にしていきたいと思った。

ナビ 東

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