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防災 秋の集い 阪神淡路大震災~25年目の真実

語り部弓子さん

10月16日田辺第二町会や社会福祉協議会の方々にご参加いただき、防災の集いを開催し、阪神大震災で被災し車いす生活になったリオの中野弓子さんに当時の体験を語っていただきました。

私は、32歳の時に神戸の長田に一人暮らしをしていて自宅で震災にあい、その時から車いすになりました。

1995年1月17日 午前5時46分 阪神大震災が起きました。

地震があったときは寝室で畳に布団を引いて寝ていました。5時46分 グラグラグラと激しい揺れが来て一瞬で電気が消えました。何が起こったかわからなくて早く逃げないとと思ったけど揺れで立ち上がることが出来ず、とりあえず体を起こしてとんび座りをしていました。その間もグラグラ揺れていました。何回目かの余震で私の後ろ側にあったタンスが私の上に倒れてきました。タンスが後ろから、たおれてきたのでとんび座りをしたまま前にふせている姿勢で、私はタンスの下じきになりました。一瞬で動けなくなりました。足の裏に手が届いたので触ってみたら何の感覚もありません、痛みもありません。私の上には天井かなにかの、がれきが降ってきてうまってしまいましした。

『ガスがもれてるー』『火ぃ使ったらあかんでー!!』と声が聞こえてきました。私は逃げることが出来ない、どうすることも出来ない!と、ものすごく怖かったです。『助けてー』と声を出し続けましたが、タンスにはさまれて大きな声がでないし、ヘリコプターの音も大きく、私の声は誰にも聞こえていませんでした。余震がずっと続いてました。タンスはどんどん重くなって来て、息が苦しくなって来て何回も意識が飛んでいきそうになり、息をすって、はいてーすって、はいてーと何回も何回もしていました。

余震のたびに上から何かがバシャンバシャンと落ちてきていました。私は出来るだけ頭をタンスの下になるように体も小さくなるようにちぢこまっていました。このまま誰も見つけてくれなかったらと何回も考えました。誰にも気づかれずに時間が過ぎていきました。その間必死に体を小さくして耐えていました。苦しくて怖くで不安で仕方がなかったです。身動きも取れない声も届かない・・・なにもできないまま耐えていました。

何時間たったかわからない時間がたって、『誰かいてないかー?』『埋まってないかー?』と声をあげながら探している人の声が聞こえました。私が下敷きになっているがれきの上を通り私を踏んでいます、この上に人がいる!!と気づいて『下に居ますーー、下に居ますーー!』と必死に声を出しました。

その人が自分の足元のがれきの下にいる私の声に気づいてくれました。

『どこにいてますかー?』という声に『真下です!!』と声を上げ答えました。見つけてくれた!助かった!助かったんやーーと思いました。人を呼んできてくれてがれきを掘り、私を見つけてくれました!『動けますか?』『立てますかー?』 『全然動けません』という会話をしました。私をタンスの下から私の体を引きづり出してくれました。立てない私をどうやって運ぼうという事になり、入り口のドアを見つけて、それをタンカにして乗せて運び出してくれました。

助けてくれた人たちはレスキュー隊ではなく近所の人たちが自主的に救出活動をしてくれていました。少し離れたガレージに連れて行ってもらい、そこには人が集まって焚火をして暖を取っていました。うつぶせのままで運ばれて行ったので町の状況がどうなっているかはわかりませんでした。ガレージでは誰かが口に食べ物や飲み物を運んでくれました。話もしたと思いますが覚えていません。避難所がどこにあるかわかりません。救急車は全然来てくれません。救急車が来ないので、近所の人が警察の人を見つけて話をしてくれて、病院まで先導してもらう事になりました。その人の軽トラに乗せてもらって、神戸大学病院に送ってもらいました。

何時間たったのかぜんぜんわかりませんでした。まだ明るかったので夕方になっていなかったのだと思います。地震で病院のエレベーターが壊れていたので、階段でドアで作ったタンカに乗ったまま2階まで運んでもらいました。病院に運ばれてからドアのタンカからベッドに移してもらいました。ずっとうつぶせの状態からあおむけに寝かされ体を伸ばしたので、この時に初めて痛さを感じました。この時まで全く痛みを感じてなかったのだと気づきました。体のあちこちの骨がおれたり、足がずるずるにすりむけていたり、たくさんケガをしていたようです。キョウレツな痛みを感じました。あちこちどこが痛いのかわからないくらいの痛みでした。何の検査をしたのかぜんぜん覚えていません。

停電で病院の中は真っ暗でした。真っ暗闇の中ずっと点滴をしていました。部屋は6人部屋で同じ部屋には重症の人ばかり運ばれてきます。余震が何回も来るのでガラスには割れない様にバッテンにテープが貼られていました。病室がゆれる時には、『こわいー』と叫んでいる人の声も聞こえてきます。病室から外をみたら火事で町が真っ赤に燃えていました。ずっと燃えていました。空襲ってこんなんやったんかなと考えていました。看護師さんは懐中電灯で移動していて、その灯りがチカチカと動いたり、ガヤガヤした声がします。その間も余震は続いていて 何回も目が覚めました。

『ここでは手術ができません』と言われて、足が治るのかどうかもわからないまま過ごしていました。神戸の病院から1月末くらいに高槻の病院へ転院しました。高速道路が倒れていたので救急車で京都まで行き、そこから自衛隊のヘリコプターで高槻まで行きました。毛布でくるまれてストレチャーに乗ってヘリコプターに乗りました。声は聞こえるけど周りが見えなくてすごく不安でした。神戸病院の先生がついてきてくれてました。病院についたらそのまま検査が始まりました。検査が終わり先生が『一生歩くことはできません』と言いました。なんで歩けないのか意味がわかりませんでした。付き添ってくれる家族がいませんでしたので神戸の病院の先生が一緒に話を聞いてくれました。ひとりで話を聞いていたら怖かったやろうな、先生がいてくれて良かったと思いました。

手術をしたら治るかなと思っていました。もう一生歩けないというのはどういうこと?寝たきりになるの?と色々な不安が頭の中をぐるぐるまわって涙がボロボロでるというより、ただただ「わたしはどうなっていくんやろうか?」という不安でいっぱいでした。

2月3日に手術をしました。検査では神経がどこまで通っているか調べるために頭を丸ぼうずにされました。『車いすには乗れるようになるよ』と先生が言いました。車いすに乗れるんや、寝たきりじゃなくてもいいんやとものすごくホッとしたのを覚えています。背骨がナナメにおれているという事で骨を固定するため、骨盤の骨を背中へ移植する手術をしました。手術後は半年寝たきりの状態で動くことができないのでずっと天井を見て過ごしました。とても長く感じた半年でした。

以上が私の体験談です。日本に住んでいる限りこれからも地震などの災害がおこります。

近所の人が助けてくれて見つけてくれて今生きていると改めて思っています。近所の人の協力が絶対に必要だと思うので、町内会の訓練に行ったりして知った顔になっておくのは大切だと思っています。

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