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親・支援者と一緒に考える「自立生活」とは 1-1

ちゅうぶでは、グループホームリオの入居者を募集しており、そのための自立生活プログラム(ILP)を実施しています。ちゅうぶは障害者主体で活動し、自立を自ら考え、障害者同士が支援することが基本ですが、親や家族、支援者が障害者にどう関わるもILPの取組を行う上で重要な課題です。
ILPと並行し、実施される親、支援者向きのプログラムを通信で紹介します。

第1回目講師として北村佳那子さんのお母さんです。佳那子さんはかなり障害が重い方ですが、奈良から大阪へ引越しされて、普通の小中高と学校へ行って、大学は聴講生として通いました。佳那子さんの頑張りとお母さんの頑張りもあるが、いろんな人とか周りの環境もあって、佳那子さんの生活を支えています。
生野区のジャンプという事業所(法人名Q.B)があり、佳那子さんはそこの「はなうた」というグループホーム(以下GH)に入っていますが、ヘルプセンターじゃんぷの前身はほっとという親の会で生野区とか平野区で30年前、制度がちゃんとない時代から障害児のガイドヘルパーとかレスパイトとかいろんな取り組みをされていて、ほっとの代表とかもされていました。

【北村恵子さんのお話し】

71歳になりました。2018年に入院し、1年間治療していましたが、その後、コロナ禍になって、家でゆっくり散歩に行ったりして暮らしています。娘が自立していることが前提でそういう生活ができています。

今日は、障害の重たい娘が自立するまでということで話させていただきます。

「北村さん、佳那ちゃんを育てて何が一番大変でしたか」と言われた時に、色々病気もしたりとかもあったけど、差別のある社会で娘がいきているということ、何かにつけて、排除されるというか、すごい対応されるんですね、それが、一番辛かったですね。

体調悪くて一晩寝ないとか、そういうこといっぱいあるのですが、それよりも、そういう社会で生きていかなければいけない娘の顔を見ているのが辛かった。娘の人生は、私が変わってやることもできない。差別のない社会になったらということで、お話させていただきます。

障害があるとわかって

生まれた時は全然分からなくて、3ヶ月検診に行った時に、検査を勧められて娘のCTをとった先生が、「これはひどいな。何もわからんな。」って一言いったきり、何も言ってもらえなくて2ヶ月待たされました。その間、私が親であることもわからん娘を産んでしまったのかと思うと悲しくて、辛くて、娘を抱きながら、泣き暮らしていました。
自分の中の差別について、重い障害のある人と出会っていたのだろうけど、あんまり記憶になかった。本当に知らなかった。だから、娘に障害があるとわかって、どんな怖いことになるのかという、すごい恐怖心だけでした。
娘の障害を聞いた時に、夫婦2人で話し合うとかは全然なくて、自分の気持ちを支えるのが精一杯で、自分自身が乗り越えるので精一杯いでした。
息子はわざと明るくしてくれて、私がメソメソしていると、「僕は佳那ちゃんが生まれてきてよかったと思う。1人じゃないから」って言いました。
娘と一緒に暮らして、わかったことがは生きていることがすごい尊いことやなって、価値観が変わりました。
娘を抱きながら、日々過ごしてる間にね、あんまり笑わない娘がニコっと笑ったんですね、それで、「ああ、生きてる」ということを、娘から生きるってこんなんすごいんや、笑うってすごいんや、ということを教えられました。

差別について

社会からの差別っていうことでは、相模原事件がありました。生きる価値がないって言って命を奪われた。あと、2022年内閣府で障害に関する世論調査で、障害を理由とする差別や偏見があると思うかという質問で、「ある」と思うっていう人が47.5%、「ある程度ある」と思う人が「41%」ということで、差別意識はあまり変わっていない。

娘が大阪の小学校に行って、5年生の時娘のことを各学年の子に話そうということで、先生が色々お話してくださった中で、同級生の友達からの感想ですけど、ちょっと読ませていただきます。
「はじめは、「わたしがかなこの世話をしている」と、すこしはおもっていたけれど、今はいい友だち。世話だなんてとんでもない。あれは友だちとして助けるんです。かなこも私を助けてくれるから私も助けるんです。かなこは私にとって大切な存在です。」「私はもしかしたら「障害」をあまり理解しないままに、差別していたのかしれません。かなちゃんに出会ってよかったです。」

日常の生活

今の暮らしは、生野区のGH「はなうた」で暮らしています。知的障害の男性2名に女性2名です。
娘の病気ですが、胎児期のウイルス感染による後遺症で、CTで見ると脳幹という生命維持に必要な細胞がかろうじて残っているだけで脳細胞があまりありません。体温も低体温であまり上がらない。冬になったら体温計で測れないぐらいですが、今年は少しましでした。

人工呼吸器を調子が悪い時は一日中をつけていましたが、今は寝る時だけ、つけています。去年に胃ろうから腸ろうに変わりました。不定期に原因不明の膵炎で入院を何回も繰り返しています。
グループホームに暮らしながら、週2回、生活介護に2か所行っています。療育園とパーティさん、その他にチームカナコの活動、イベント企画zoomで年に数回しています。他、NPOポムハウス社員として喀痰吸引研修に参加しています。

娘のコミュニケーションって言葉ではなく、表情であったりとかするんですけど、基本は子供の権利条約にもあるように生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利があります。あと、12条に意見表明権を聞いてもらう権利がありますが、やっぱり言ってもわからないと言われることが多くて、聴いてもらえないということが、大人達には多い。一緒に過ごした子どもたちはそうでもないです。結構、娘の代弁をしてくれていました。

就学前の施設

入所中の6歳ぐらいの男の子が私たちの部屋の前にある公衆電話で電話してほしいとよく頼みにくるのですが、電話番号わからないし・・・、どうしようもできなかったです。子どもたちは必死で、そこで暮らしています。ある子はサークルの中に入れられて、パジャマのボタンを止める練習を泣き叫びながらやらされていました。私はなんでこんな子たちが親から離れて、ここにいないといけないのかと、思いました。娘の障害がわかった時に、保健師さん来て「施設もありますよ」って言われましたけど、入れる気にはなりませんでした。

娘が絵本を読んだら、同じところで声をあげたり、公園に連れて行くと、子供たちの声がする方に体をそらせて聞くんです。
なだらかな坂の上に歩行機を持っていって、そこに乗せて、このちょっと転がしてやる。そうすると、少し歩けるようになるかなとか、いろいろやりました。10分おきぐらいにお湯と水を張ったところで、暑い、冷たい、暑い、冷たいとか、懐中をつけたり消したりして、暗い、明るい、暗い、明るいとか、していました。私が疲れ果ててしまいました。私が疲れた以上に、娘はどんなふうに感じてたかなって思いました。

みんなが幼稚園とかに行く時に、佳那は行くところがなくて、通園施設こじか園が奈良にあるのですが、山の奥、辺鄙なところにスクールバスで行きました。そこは、母子分離でし、たまには親も出かけて、親同士でお茶を飲みに色々交流して、先生たちも1対1でついて、丁寧に育ててくれたと思います。違う子とか子供たちの表情とか動きとか見て、私は励まされる部分がすごく多かったです。行くところがあるだけでも幸せと感じました。

奈良での就学時健診

入所中の6歳ぐらいの男の子が私たちの部屋の前にある公衆電話で電話してほしいとよく頼みにくるのですが、電話番号わからないし・・・、どうしようもできなかったです。子どもたちは必死で、そこで暮らしています。ある子はサークルの中に入れられて、パジャマのボタンを止める練習を泣き叫びながらやらされていました。私はなんでこんな子たちが親から離れて、ここにいないといけないのかと、思いました。娘の障害がわかった時に、保健師さん来て「施設もありますよ」って言われましたけど、入れる気にはなりませんでした。

娘が絵本を読んだら、同じところで声をあげたり、公園に連れて行くと、子供たちの声がする方に体をそらせて聞くんです。
なだらかな坂の上に歩行機を持っていって、そこに乗せて、このちょっと転がしてやる。そうすると、少し歩けるようになるかなとか、いろいろやりました。10分おきぐらいにお湯と水を張ったところで、暑い、冷たい、暑い、冷たいとか、懐中をつけたり消したりして、暗い、明るい、暗い、明るいとか、していました。私が疲れ果ててしまいました。私が疲れた以上に、娘はどんなふうに感じてたかなって思いました。

みんなが幼稚園とかに行く時に、佳那は行くところがなくて、通園施設こじか園が奈良にあるのですが、山の奥、辺鄙なところにスクールバスで行きました。そこは、母子分離でし、たまには親も出かけて、親同士でお茶を飲みに色々交流して、先生たちも1対1でついて、丁寧に育ててくれたと思います。違う子とか子供たちの表情とか動きとか見て、私は励まされる部分がすごく多かったです。行くところがあるだけでも幸せと感じました。

奈良での就学時健診

就学はすごく大変でした。地域の兄が行っている地域の学校に娘の生きてることを、育ってることを知ってほしいと思い、1週間に1回とか、交流をさせたいと言うと、「養護学校に行きます」という念書を持ってきたらお話をしますと言われました。

教育委員会に1人で行って話しましたが、全然ダメでした。地域の学校の前には、大きな看板で「差別をなくそう」って書いてあるのですが、先生たちは、それは差別じゃないと思っているのですね。最終的には養護学校に行くことになりましたが、なんかモヤモヤするし、教育委員会の人に、障害がある子どもが何年か後には地域の学校に通えるようになりますかって聞いたのですが、一刀両断で「あり得ません」と言われました。

就学時健診後も息子も虐められたりしてひどかったです。学校で就学時健診を終え、その後、奈良市内で問題を抱えた子を集めた特別就学時健診を受けました。2月のすごく寒い日でした。健康診断を受けてほしいと言われた時も「病院に通っているから受けたくない」と言いましたが、決まりだからということで、小児科、精神科、整形外科、聴力検査、知能テストなどをいろいろ受けさせられました。
お医者さんは、娘の姿を見て、何もできない状態なのに、「一人でご飯を食べられますか」と問診したり、洋服の上から聴診器をあてたきりで、何も言わずに次に回され、差別的なことをされ、ほんとうに悔しかったです。
3時ぐらいから、教育委員会の人たちが、お母さんどうしたいか思いを聞きましょう、言ってくださいと言ってきました。でも、聞くだけですよ、それを聞いて考えるとか、そういうことじゃなくって、本当に聞くだけです。
お昼は食べられない、クタクタの状態でそんな扱いを受けて、私は帰りの車の中でボロボロ泣きましたね。
なんで、この子がこんな目に会う社会で生きていかなければいけないんだろうって。知ってもらって社会が変わるしかない。そう思います。
そして、息子の学校に交流に1学期に1回だけ行きましたが、養護学級があって、障害のある子は給食の時だけ原学級に帰るのです。佳那が行った時は、体育館に集められて、同じ学年の子たちとちょっと遊ぶんだけど、見世物みたいで、私も娘もめっちゃ疲れました。

1年生の2学期に股関節の手術で東大寺整肢園に入園することになりました。その半年後に主人の仕事の都合で、大阪に引越し息子の転校手続をしました。その時にダメ元で娘のことを相談しました。その時はやんわり断られたのですが、その時の会計の先生が、大阪市大の障害者運動に、新任の時に関わっていたみたいで、「大阪市は、親が望めば受け入れられますよね。」と校長先生に掛け合ってくれました。そして、「来てください」っていうことで、行けるようなりました。

退院を目の前にして、すごく寒い冬で、体温維持ができない娘は、施設の部屋は暖房をガンガン効かして暖かいのだけど、体が温もるっていうのはまた別問題なのです。家では電気で温めていたので使わせたいって言ったんだけど、「佳那ちゃん1人特別扱いはできない」みたいなことを言われて、20日間ぐらい生死を彷徨いました。低体温症だったと思います。先生が「お母さん好きなものあったら食べさしてやって」って言われ、ハーゲンダッツのイチゴが好きだったので、それ買いに行って、足元で座っていたら、急にすごい声を出して、生き返りました。
「こんなところで死んでられへんわ」みたいに、回復して、退院できました。

1-2 に続きます。

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