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『自立とは何か云々』

昨年、法人の職員研修で、代表理事を務める尾上浩二さんの生活史を聞いた。私は、尾上さんとは学生時代からの関わりで、今取り組んでいる障害者の人たちの親元からの自立や一人暮らしを進めているが、「自立をどう考えたら良いか」質問した。自立が自分で自分の身の回りのことができるようになることではないことは、明白である。自分で働いて経済的に人に頼らないことではないことも、明白である。回りに決められるのではなく、自分で選択して、決めていくことも、明白である。じゃあ、それだけで良いのか?何か足りない、と感じてきた。そうそう、尾上さんも私たちも、社会的自立と言う言葉を使っていたなあと、思い出した。社会的自立とは、自分の力で自立することではなく、社会の制度や資源を使うことによって自立生活を送ると言う意味と、もうひとつ、社会から隔離されての生活ではなく、地域と言う社会の中で、そこで生活してる他者とつながって自立生活するような意味だったと思う。

微笑む尾上さん

自立そのものを目的にしてしまうと、自立したあと、最初は色々な事ができて初めての経験で面白いけど、慣れてくるとわくわく感も減り、介護者との関係のしんどさだけが見えてくるのは、時々聞く話。露骨な差別もかつてのようにあからさまではない。しかも生活とは、誰もそうだが、買い物して、ご飯作って食べて、顔洗って、洗濯して、掃除して、ゴミだして、銀行行って、風呂に入って…と、毎日同じ事の繰り返し。面倒くさい事が一杯。尾上さんや私の弟のように、施設での生活を強いられ、二度と戻りたくないと強い動機があればよいが、そうでもなければ、障害者運動の必要性を言われてもやらされてる感がぬぐえない。なんのために自立するのか、自立をどう考えたらよいのか。

尾上さんの答えはこうだった。日々の世界はルーティンで当たり前。変わったドラマは起きない。そういう意味でつまらない。その範囲で見てしまうとつまらない。目の前のことだけでなく、背景を知ることで別の風景が見えてくる。視野を広げる中で、自分の世界が広がる、と。

それを聞いて思い出したことがある。多様性をテーマにした、生物学者の福岡伸一さんとコラムニストのプレイディみかこさんの対談の中で、印象的なやりとりがあった。

「真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、言わば利他的な概念である。本質的には、自己の利益や結果を求めるものではない。自ら学ぼうとしないと自分の利他性に気づけない。何も知らないままでは、他者の立場を考えられない。偏見や強者の支配にとらわれてしまう。学ぶのは「自由」になるため。「自由」になれば、人間は考えたくもない人の立場に立って考えることができると思う。山に登ると遠くまで見渡せるように、勉強すれば人の視野は広くなる。すると、お互いの自由も尊重し合う力を持てるようになる。」

また、「嫌われる勇気」で有名な心理学者のアドラーは、「われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。」 と言っている。 

「あなた」や愛は、1対1の恋愛や結婚相手に限らず、家族や職場や、仲間や地域にも広げて当てはめることができる。社会や他者への関心に心を配り、現実から目を背けずに向き合う勇気を持つことで、他者と共生する道を選ぶ。それが、最終的には自立した生き方につながるということ。

最初の話に戻ると、親元をでたり、一人暮らしをすることが自立ではなく、それを通じて、社会や他者(障害者仲間や介護者も含めて)に関心をもち、学んだり、他者と関わる事を通じて、視野を広げ、他者を愛し、私だけの事ではなく、私たちの幸せを考え、追及していく生き方が「自立した生き方」と言うことになるか。

また、視野を広げるという意味で、生物学者の福岡伸一さんとコラムニストのプレイディみかこさんの対談で、次のような話もある。

「ジャレドダイアモンド博士と話したときに、『どの民族にも、例えば「殺すな、盗むな、嘘をつくな」という戒めは共通してあるけれど、「他人に迷惑をかけるな」という戒めを重視する民族は日本人だけである』と言っていました。日本は、誰もが日本語がわかって当然という均質的な社会なので、言外の意味を忖度したり、空気を読むと言う同調圧力が生じてしまう。米国では、違う文化で生まれ育った人々がプアな英語で意思疎通しているため、言葉で表現したこと以外に気を回す余裕はないし、それを求められもしない。」

「自分と異なる他者のいる場に身を置くと、身体で理解することがある。逆に現実の姿を知らないと、『生活が厳しくなるのは移民のせいだ』と吹き込まれると、そう信じこんでしまう。無知が原因で恐怖心が沸き上がってくる。」

これは、単に勉強して頭だけ知識を詰め込んで大きくなるのではなく、実際に現実の世界で、自分と異なる他者と関わり、身体で理解することが大切だと言っている。移民だけでなく、日本で差別を受けている人たちや様々な障害のある人など、知らなければ簡単に偏見をもってしまう人たちと関わり、理解し、「わたしたちの幸せを考え、追及していくこと」の大切さが言われている。つまり、障害者と直接かかわることで偏見をなくし、共に生きる社会を追求していくことが、障害のないものにとっての「自立」とも言える。

つまり私たちは、自立運動と言うけど、それは、AさんBさんの施設や親からの自立を押し進める事だけではなく、AさんBさんが、次にたくさんの施設や親元にいる障害者や、地域で生きにくい思いをしている障害者に関心をもち、関わったり、学んだりすることによって、「私たちの自立を押し進めていこう」と追求し、地域の健常者や介護者と共に実践していくこと、それが自立運動ということか。

一方で、こんなおもしろい考え方を見つけた。

大学進学をきっかけに親元を離れて一人暮らしを始め、試行錯誤しながら自立生活を確立していき、医学部を卒業後、現在は東京大学先端科学技術研究センター准教授である熊谷晋一朗さんは、次のように言っている。

「『自立』とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。」「だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでした。」

熊谷さんの話を聞いて、緒方直人さんは、次のように書いている。

「障害者に限らず、どんな人でも生まれながら誰にも依存せずに生きていくことはできない。親だけに依存した状態から、徐々に社会の中に依存先を増やしていくこと、それこそが自立なのだ。また、生きていくうえでの依存先は何も親や友達といった人間関係だけの話とは限らない。『Aがなくても生きていける』というのは決して『何もなくてもひとりで生きていける』ということではなく、『いざとなればBにもCにもDにも・・・頼れるものがたくさんある』ということなのである。」「薬物に限らず多くの依存症と呼ばれる状況もまた、人間関係をはじめとして様々なほかの依存先が絶たれ、特定の何かにしか依存先がない状況によってもたらされてしまうのだ。そして、そこから抜け出せるかどうかは、それ以外の依存先をどれだけ持てるかにかかっているのであり、刑罰や社会的制裁によってさらに依存先を絶たせ、狭めることではないはずである。」「熊谷さんが『親を失えば生きていけない』という不安を感じたと述べているように、何か特定のものにだけ依存している状態は、それを失う不安や怖れと表裏一体である。その怖れに対してほかの依存先を増やすという発想の転換ができないと、いま依存しているものを失わないために、それ自体にさらに強く依存するという悪循環に陥ってしまうのだ。」「何かに依存してはいけない。自分の意志で行動し、その責任をとらなければならない。自業自得。自己責任。一見正しく思えるこのような考え方に、わたしたちはあまりに強く囚われすぎてはいないだろうか。一方で、『○○しないといけない』とか『○○以外信じてはいけない』と言った、依存先を狭める言説にも注意が必要だ。他の依存先を絶たせるような言い方をしていないかを最低限の判断基準にするべきだはないかと思う。」

緒方さんの話は、依存先を増やすことで何かひとつに依存しなくてすみ、共依存にもならないのだということがよくわかる。

結局は親や施設以外の他者と関わりをひろげるという点では同じであり、結果的にそれによって、「わたしたちの幸せを追求していく」ことは同じなのである。このことは決して難しいことを考えたりやったりすることではない。どんなに障害が重くても、自分で特別なことを発信できなくてもできることではないか。障害があってたくさんの人を巻き込まないと生きていけないからこそ、より自立した生き方を実現しやすいといえるのではないか。

一言でいえば、青い芝の会が最初に打ち出した「そよ風のように街に出よう」、そして知らないもの同士が出会い、関わり、他者を知り、共に生きていく社会、つまり私たちの幸せを実現させる社会を共に作っていこうということになるか。結局はそういうことなんだ。あれこれといろいろと難しいことを考えてみたけど、やっぱり青い芝の会の理念はすごいなと改めて思った。

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