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相模原事件を考える。

相模原事件についての文章を書くにあたり、はじめに気づいたことは私の中で相模原事件が風化しはじめていたことだった。
いまこれを書いているのが2020年4月24日、事件が起きたのは2016年7月26日、植松被告の死刑が確定したのが2020年3月31日。事件を知ったときに背中がゾッとした感覚を今でも思い出せるし、判決が出たのは1か月前のこと。今は世界中がコロナウイルスの脅威にさらされ、障害者も健常者も関係なく死が身近なものになっている。
どんなに抗おうとも人はいつか必ず死ぬ。皆が等しく死に近づいている中、わざわざ自分のエネルギーを投入して人を殺すというのは、どれほどの憎悪があるのか?どれほどの(本人にとっての)正義があるのか?考えれば考えるほど、なにか黒い渦に飲み込まれるようで纏まらない。いっそのこと本人に聞いてみたいとも思うが、新しい情報が出てくることはもうないだろうから謎のままに残る。
一番重い罪という意味では死刑は妥当だと思うが、今後二度と同様の事件が起きないための環境づくり—もっと植松被告自身や周りの状況を掘り下げて知ること、それも断たれてしまったように感じる。
事件の残忍さを思うと、植松被告と私は違うと思いたいけれども、優生思想の種は誰でも持っている。このなかで1番になりたいとか、この人には勝ちたいとか。時と場所によっては原動力となる好ましいものが、バランスを欠いて肥大化したものがいわゆる優生思想なのだと思う。その境目はどこにあるのだろう。多分、自分自身の小ささ、弱さを忘れた瞬間ではないかと思う。
植松被告も時を遡ると一人では何もできない赤ちゃん。でも、ただ居るだけで周りを笑顔にしてきたはず。そこから成長して事件に至るまでに、偏っていく考えを修正する機会が、何度も何度もあったはずだと思う。
もう二度とこのような事件が起きないようにするためには、その「修正する機会」を逃さないようにするしかない。本人もしくは周囲が気づけるように、開放的であること、透明性があること、そしてできるだけ早く。そして、少なくとも毎年7月26日は被害にあわれた方々を追悼するとともに、自分自身の在り方を問う時間にしたい。何度忘れそうになっても、何度でも思い出せるように。

ナビ 中尾

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