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重度脳性まひの弟の自立まで その2

私は、重度の脳性まひの弟とはひとつ違いです。両親と母方の祖父母と、母がデザイナーをして洋裁店を開いていたのでお針子さんが5~6人とで住んでいました。

弟は生まれてすぐ黄疸があり、産院から帰ってきてすぐ高熱が出て、そのあといつまでたっても首がすわらないため、転々と病院回りをしたと聞いています。同じくらいに生まれた人たちに聞くと、皆やはり原因がわからないため、転々と病院を回り、やっと脳性まひと告げられたそうです。当時のことなので、もちろんその間に、御祓いをしてもらいに行ったりしたようです。

うちは、母方の祖父が視覚障害で、はりマッサージ業を営んでいました。
私が5歳のときに、母が心臓麻痺で急死し、それからは私と弟と祖父母の4人での生活になりました。なにせ4人家族の内、一人は重度の肢体不自由児、一人は全盲、一人は小学生でしたから、区役所の福祉事務所(当時は障害も高齢も福祉事務所)が心配しないはずはありません。

弟は6歳で、肢体不自由児施設に入所しました。そこは病院の整形外科の分院。ひとつの部屋に、ベッドが8台ほど並べられていて、看護婦さんが介護をしていたと記憶しています。入所して3ヶ月位は、施設の生活に慣れるために私たちは面会させてもらえませんでした。私は毎週日曜日の午後の面会に、祖母について行っていました。訓練でベッドからおりてイスに座っていたりすることもありましたが、食事も全部ベッドの上だったように思います。日曜は時々イベント(手品のショーなど)がありましたが、7歳の私は暇をもてあまし、同じように家族と面会に来ていた別の部屋の子どもと外で遊んでいました。

弟は7歳になったのですが、重度すぎて自分で階段を上がれないために、施設の2階にある学校にさえ行かせてもらえませんでした。

家族と別れての施設生活。
弟は毎回日曜の夕方の別れ際には、声を振り絞る様に泣き、祖母と私は逃げるように施設を出ていました。結局その施設では、弟は重度すぎて手術もできないので、入り続ける意味がないと、1年半で退院させられました。

ひとつめの施設、そこは学校に行けず、ほとんどベッド上での訓練が中心で、帰りたくて泣いていた場所でした。でもまさかそれ以上にひどいところがあるなんて、誰が想像できたでしょう。

つづく

まとめ

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