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重度脳性まひの弟の自立まで その5

―――仲間に支えられて施設退園を実現する

いよいよ施設を出るに当たって、家に帰るか、成人施設に移るか決めないといけない時期がやってきた。区役所の福祉事務所の担当者は、新しくできた施設があるから見に行くだけでも見に行こうと言ってきた。私は、弟を成人施設に入れる気はないと言った。勿論弟も入りたくないと思っていた。担当者と弟と見に行った施設は山の上の方にあり、建物はまだ新しかった。しかし、そこは、一部屋にベッドがいくつも病院のように並べられていた。弟は、それをみた途端、「絶対にいや!」と私の顔をみて言った。トイレはどうしているのかや、昼は何をして過ごしているのか質問した。その時に対応してくれた職員が、私たちの雰囲気を察したのか、「トイレはおむつになるし、昼は何もすることはありません。ずっとベッドの上に寝かされたままになるから、入らない方がいいよ」とコソッと言った。弟と私の気持ちは揺るぎないものとなった。

それから区役所との攻防が始まった。区役所はしつこく施設を勧めてきた。しまいに、「お姉さんが嫌だと言っても弟さんがうんと言えば良いでしょう」と、言ってきた。私は焦った。なぜなら弟は耳がきこえにくいから、わかってなくても「うん」と言う可能性があったから。聞こえにくいからだけではなく、長く施設で生活していたら、職員に対してわかってなくてもニコニコして「うん」「はい」と答えてしまう所があった。実際私たち家族も、職員にかわいがられるためにニコニコして「はい」と返事しなさいよと、教えてきたのだった。

それからは、絶対に区役所の人と話するときは、「うん」と言ってはいけないと毎日説明した。最後に区役所から言われたのは、「あとになって施設に入れてくれと頼んできても、知りませんよ。利用できる制度は、週に二回、一回二時間のヘルパーだけしかありませんよ。」だった。要するに、勝手に施設を出たのだから何かあっても知りませんよと言う話。

その時は、仲間がいたから施設を出たいと思えたし、やって行けると確信した。今思えば、何の保証もないのに、何で確信できたのだろう?と思うが(笑)。私と弟だけでは絶対にできない決定だった。「自己選択」「自己決定」と言うけれど、それはその結果は「自己責任」ですよと区役所のように言い放たれたら、私も含めてほとんどの重度障害者や家族にとっては、施設を出る決心は死を覚悟するに等しい。

たとえ失敗しても何回でもやり直せる、仲間が一緒に支えてくれる、それがあるから安心して一歩を踏み出せるのだと思う。

弟が施設を出てから、青い芝の会では全国レベルで健全者との共闘関係をやめる議論が起こり、大阪青い芝の会だけは、グループゴリラとの共闘関係を残す選択をした。大阪青い芝の会は自分の力だけで健全者に差別意識をつきつけ、介護に巻き込む力のない重度の障害者が多かった。だからもしグループゴリラが解散したら、弟を始めほとんどの重度の在宅障害者は、また青い芝と出会う前の家から出られない生活に逆戻りしていたに違いない。唯一大阪青い芝の会だけは、障害者主体、健全者との共生共闘を打ちだしたのだった。障害者が主体になること、それは決して障害者が全部中心でやっていくと言う事ではなかった。主体を奪われてきた重度の障害者の主体を、障害者と健全者が共に生き、共に社会をかえていく運動を作り出す中で、取り戻して行こうと言うものだった。そして、その運動は、決して理論だけではなく、多くの普通の重度障害者の生活ニーズに基づこうとした。生活とりくみを通してそれを社会的な運動に高めて行ったのだ。

運動を中心で担う事が難しい弟の生活は、健全者がやめたりしていくなかで、介護者も足りなくなった。介護者がいない時は私が介護した。また昼間は特にすることもなく、夜中遅くまで起きていて昼まで寝てる生活になった。しかし、それらの課題は弟だけではなく、当時の運動全体の課題でもあった。そのような介護を安定させる問題、重度障害者の生活の中身づくりを方向性として打ち出していき、仲間づくりの拠点として作業所制度を活用し、介護をボランティアと言う位置付けから、より安定させるために職員化を進めていった。後に、唯一の家族であるお母さんが入院し、介護ができなくなったにも関わらず、24時間介護者に指示する生活が耐えられず、老人病院に入った後、施設に入所するしかなかったNさんの問題は、決して忘れる事はできないし、忘れてはならないと思っている。私たちは、私は、絶対に嫌だった施設に、自分たちの手で、入れたのだ。これが当時の障害者の自立運動の限界とも言えた。介護をボランティアではなく、誰もが安心して保障されるように、充実した制度を作ること、それと同時に、生活を自分で組み立てるのがしんどい障害者には、皆で一緒に生活を支えていく事、それらが次に進めていくべき方向性だった。

その中で、弟は大阪市で第一号の重度身体障害者グループホームに仲間の障害者と共に入居した。介護の制度化を大阪市に要求し、グループホーム制度化を実現させた。Nさんは、その後市内の近い施設に移り、グループホームに何度も体験入居を重ね、施設からの日中活動への通所も実現できるところまで行きかけた矢先に、施設でのどを詰まらせて帰らぬ人となったのだった。

私には、もう一人忘れることができない障害者がいる。就学免除で全く教育をうけておらず、6畳の部屋の中で何十年と過ごしてきた重度のMさん。彼も、家族の介護負担を減らすため施設に入るか自立するかという選択肢を自ら迫ってきた。しかし、彼は青い芝の会やグループゴリラが初めての家族親族以外の関わりで、社会との接点だった。彼は自立したいという意思はあったが、あまりの経験不足ゆえか、大きなうそをついて悲劇のヒロインになって周りからの注目を集めようとするところがよくあった。当時は交渉がいやだから映画を見に行くという障害者もいたが、その程度ならよいが、自分の本当の親は韓国人で、亡くなったからお葬式に行きたいとか、家族に聞くにも聞けないようなうそを何度もついていた。結局、彼を全面的に受け止めて支えていく選択肢にはならず、また家族も多いから何とかなるだろうと思っていたら、本当にNさんと同じ施設に入ってしまった。その後彼は私たちを恨み、会いに行っても拒否が続いた。Nさんが施設を移ったので様子を知ることもできないまま時がたった。ある日、交流のあるグループホームから「Mさんが末期がんで、施設を出てこちらのホームに入っている。西川さんと会いたがっている。」と、連絡があった。私は急いで彼に会いに行った。二人で泣きあってこれまでのことを謝った。その後しばらくして彼は息を引き取ったが、もし会えないままでいたら、私は未だにずっと悔恨の念にさいなまれていたことだろう。弟のことだけなら、まだ私も若かったから、自分が介護することで乗り切れるだろうが、他の障害者の生活全部の保障となると組織としてできる力量があるかどうかにかかってくる。Nさんといい、Mさんといい、そして和歌山の施設の入ったKさんといい、みな電話もかけられないほど全面的な介護が必要で、教育や社会経験も奪われているので、自分が主体になって生活を組み立てたり、運動の中心を担うということが難しい人ばかりである。本質的には弟と変わらないのである。彼らが大阪青い芝の会にいたからこそ、その後の大阪の、私たちのとりくみの今があるのだと思う。

弟の生活自体は、入居前も後も、そして24時間介護をつけて一人暮らしをしている今も、色々と課題や泣き笑いはある。国内旅行や海外旅行にも私に負けじとたくさん行っておみやげを買いまくるのが趣味だし、一方で生活面は課題が多く、今でも顔を見るとついつい怒ったり小言を言ってしまう私である。しかし、それでも、やっぱりあの時青い芝の会に出会って良かった。施設から出て良かった。出会いがなければ、或いはもう少しおそければ、今もまだ施設にいたかもしれない。いや、やはり、施設を出る方法を探し求めて結局は出会っていたかな。

多くの重度障害者が当たり前の生活を選び、実現する運動はまだまだ道半ばである。でも、今までもそしてこれからも、彼らのことをいつも忘れることなく、そこだけは絶対にぶれてはならないと思っている。

<完>

まとめ

その1はこちら
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