Home  日々の活動  障害者差別解消法を武器に当事者が社会を変えていくために①

障害者差別解消法を武器に当事者が社会を変えていくために①

講師の松波めぐみさん

大阪市立大学 松波 めぐみさん

2021年2月27日 中青例会(大阪青い芝の会中部地区例会)の学習会で大阪市立大学の松波めぐみさんにご講演いただき、障害者権利条約の批准、障害者差別解消法の制定の経過を当事者の運動を重ねながらお話くださいました。

(松波さんのお話)

私は、自立生活センターの介助者をしながら、人権の問題として社会を変えていくにはどんな教育が必要か考えてきた。差別解消法はもうすぐ5年になるが、解消法をわかりやすくどう伝えていくかは、私の重要なテーマ。そして、それに至る障害者権利条約の話ははずせない。当事者がどんどん自分の声を出していって、世界の障害者運動で社会を変えていき、障害者権利条約につながった。日本では差別解消法につながったが、当事者にわかりにくい。それをどう使いこなしたらいいのかというのが一番の問題意識。

西宮在住の車いすユーザーと仲良くなったのをきっかけに、大学院へ行って、障害学に出会った。社会モデルを知ってピンときた。障害は、身体の側にあるのでなく、社会の側にある。自分がやりたいのはこれだと思った。いろんな当事者と出会い、メインストリーム協会で介助をし始めた。茨木の「ほくせつ24」でも介助をし、今は京都のJCILで10年前から介助をしている。

世界でいろんな人権のルールとして「条約」を作ろうとしている動きに興味があった。国連で条約ができるのはチャンスと思い、勉強したいと2006年にニューヨークでの障害者権利条約の話し合いを見に行った。東京のDPI日本会議の人に頼んでチームに加えてもらった。本当にたくさんの障害当事者が集まって条約を作るというのを見た。すごく刺激を受け、障害者の権利を世界で広めていこうという動きが始まるのだったら、何かしたいと思った。

その頃、もう一つ、転機になったのは、2008年にビックアイで開催されたアドボケイト養成講座に参加したこと。車いすの東弁護士、ちゅうぶの尾上さん、臼井さんが講師だった。その講座の後、京都で条例を作ろうとして、矢吹さん、JCILを中心に、視覚障害者、聴覚障害者、精神障害者、知的障害者、障害者本人、親の会、福祉団体も、いろんな団体に声をかけて、全部で40団体のネットワークを作って、条例を作る動きを始めた。私は、事務局をかってでた。この運動を通じて、いろんな経験ができた。それまで、障害がある人が地域で悔しい思いをしているとか施設はとんでもないとかそういうことは知っていたが、この条例は何に役に立つのか散々いろんな人と議論することができた。そのおかげで、条例や差別解消法を使ってどう社会を変えるのかを考えることができた。その経験をもとに、2015年ぐらいから研修の講師をするようになった。

障害の社会モデルとは

障害のある人が生活していて不便だったり、嫌な扱いを受けたりするのは、その人の身体に障害があるのでなく、様々なバリアや偏見だったり、健常者中心のルールだったり、社会の側に原因があるという見方が「社会モデル」。問題なのは、健常者中心に社会が作られてきたこと。そこに合わせられない人は、社会から排除されても仕方ないそういう社会であることが問題というとらえ方が「社会モデル」ということ。

よく授業で使う画像。階段を上がった先にホームがあるが、この人は何で困っているのかという問い。当然、なんでエレベータがないのかと思う。でも、「社会モデル」という考え方に触れたことがない人は、「歩けないからしかたない」、「リハビリしたら」と思う。昔ながらの障害者観では、「歩けない」とか、「身体の一部が動かないから苦労する」と見るが、そうではなく、「なんで階段しかない駅を作ったのか」、元気に階段を上がれる人だけ駅が使えるような社会にしてきたことが問題という考えが広まっていった。

もう一つは、映画のワンシーン。映画も字幕があることで楽しめる。例えば、フランス語だけが聞こえてもわからない。まさに聴覚障害者はそういう状態で、取り残されてきた。日本映画は未だに字幕がない。聞えない人たちは日本の映画にも字幕を付けてくださいと運動してきているが、変わっていない。何が問題なのか。聴力の問題であると個人の問題にされてきたが、そうではではなく、聞えない人がいるから字幕を付けるようにするのが本来の姿。外国映画に日本語の字幕を付けるのは当然の配慮としてするが、聴覚障害者が訴えても少人数だから切り捨てられてしまう。大多数に合わせて社会が作られている。それ以外の人は取り残される。それを変えていこうというのが「社会モデル」の考え方。

保護から権利の主体へのパラダイムシフト

2つのパラダイムシフトがある。一つは「保護から権利の主体へ」ということ(これは、権利条約で必ず言われるフレーズ)。障害者は守ってあげなければいけない存在でなく、本人が人生の主人公。障害者が自分の権利を使う主体になるように社会をどう変えていくのかを定めたのが障害者権利条約。2006年にやっと障害者は権利の主体だということを世界が確認しなければならなかったぐらい、世界全体で障害者を保護の対象にしてほったらかしにしてきた。もう一つは障害者観のパラダイムシフト。「医学モデルから社会モデルへ」の変化。障害者が主体的に声を上げて障害者権利条約が作られるようになったということは、いくらでも強調してもいい。

1970年に「青い芝の会」を中心に障害当事者が声を上げて、家からほとんど出られなかった人も外出できるようにとか、バスに乗れないのはおかしいとか、運動してきた。社会の方を変えるべきという考えは、少しずつ広まって、一部の国では90年代に差別禁止法ができた。しかし、国際的なルールには中々ならなかった。女性差別撤廃条約70年代、子供の権利条約80年代、障害者は遅かった。世界に社会モデルが広がるのに時間が必要だった。2006年にやっと障害者権利条約できた。

nothing about us without us

障害者権利条約の世界共通のスローガンnothing about us without us 我々抜きで我々のことを決めるな。当事者参画ということが言われ、ポリオの障害当事者で専門知識がある東弁護士が日本政府の顧問になった。もちろん、政府代表に障害者が入るだけでなく、なりゆきを大勢の障害者が見守り、ロビーイングした。当事者のことを聞け、参加させろと言って条約を作った。私がニューヨークに行ったのは2006年の夏、12月の条約採択の直前。障害者の熱気を感じられて本当によかった。発展途上国、先進国の違いはあっても、社会の中から排除して特別な場所を作るのでなく、社会の真ん中で一緒に生きたいとか、子供の時から一緒に学ぶインクルーシブ教育を受けたいとか、家族を作ること、出産・育児とか、世界共通の望みを実感できた。

権利条約は守るべき権利のリスト

権利条約って、難しい言葉だけど、守られるようにするべき権利のリストだと思う。でも、障害のない人には当たり前すぎて人権の問題だとは思われていなかった。例えば、第19条の地域で暮らす権利とか自立生活の権利。しかし、障害者にとっては、入所施設や病院での暮らしを強要されている事実がある。だからこそ地域で暮らす権利が書かれた。

情報保障もされないで取り残されている人がいっぱいいる。交通機関を使って移動する権利はだれにでもあるのに、階段しかない駅とか、利用するときは2日前までに連絡とか、利用する権利が守られているとは言えない。すべての人に平等に利用できるようになっていないからこそ、「交通機関の利用は、権利だ」と障害者権利条約に書かれている。

こういう現状が変わるように条約を批准した政府ががんばらないといけない。政府に権利を守らせるように、障害者権利条約を運動で使っていく必要がある。

差別とは

障害者権利条約はいろんな権利を書いているが、一番大事なのは差別を禁じたということ。「差別」という言葉は、日本では、嫌いとか、避けるとか、仲が悪いとか、心の中で嫌というイメージが強いように思うが、権利条約で言う差別とは、障害がある人が他の人と同じ権利が守られない、違う扱いを受ける、別の扱いをされて、不利益を被るのが差別ということ。入店拒否とか部屋を貸さないとか。

また、バリアが取り除かれないことによって同じ権利を享受できないのも差別。例えば、お店の人が車いすの人はお断りと言うのでないが、「この店に食事に行きたいので入り口の段差にスロープを付けてほしい」という言われた時に合理的配慮をしないのも差別。

合理的配慮というと、「してあげる」、「お手伝いしてあげる」、「かわいそうだから」というイメージがついてまわるが、その姿勢は平等でない。「あの人は歩けない人だからしてあげる」ではなくて、社会が権利を保障してこなかったことを問題と考え、社会のバリアがあるのが問題で、それをどうやって、取り除けるのか考えるのが合理的配慮。「社会モデル」の考え方をベースにしないと合理的配慮は誤解されやすい。

日本が障害者権利条約を批准することには2つの意味がある。一つは、国際社会に日本が条約を守ることを約束すること。もう一つは、日本国内に居住する人に実行を約束すること。それを実現するためには日本の法律に活かさないといけない。それで、2009年から障害者制度改革推進会議(後に政策委員会)ができて障害当事者の委員が入った。そして、障害者基本法改正、障害者総合支援法や障害者差別解消法の創設がなされた。

京都での条例づくり 諦めていたことを話し合いへ

ちょうどこのころ、京都では条例作りのために40団体が集まって、「条例作ってなんになるんや」とか「差別解消法ができてどう変わるのか」とか、「こんな事例はどう考えるべきなのか」とか、これまで一緒にやってこれなかった団体が集まって議論する意義は大きかった。障害者同士でもお互いに知らないことがいっぱいあって学び合いだった。そして、違うことがあっても、障害者ということで共通してやっていけることがあるなあという実感が生まれた。

条例を作って変わった実感が持てたのは、これまでは仕方ないと諦めていたことを、窓口に相談し行政に間に入ってもらって、話し合いの場に持ち込んで、改善を求めることができるということだった。「どんなことをされたら差別と言えるのか」、「『こういうときにはスロープ出してほしい』とか、『聴こえないから書いてほしい』とかいうことを求めてもいい、わがままでないんだ」ということを当事者が知るのが大事だと実感した。 これが、差別解消条例ができた時に感じたメリット。これは法律でも一緒だと思う。

「複合差別がある女性」を項目に入れさせた

条例は地域の思い入れや特徴を盛り込むことができる。京都では、女性への複合差別を盛り込ませた。これは、障害者権利条約にはあるが、差別解消法には入らなかった概念。条例作りに最初の頃から関わった女性障害者から「言語障害があり、女性」ということで軽く扱われて意見を十分に聞いてもらえないという問題提起があり、検討委員会に「女性障害者」枠が設けられた。その後入った女性委員(中途障害者で電動車いす使用者)から「リハビリ病院で人手が足りないから男性からお風呂介助を受けてすごく嫌だった」という経験が出され、DPI女性ネットワークや優生保護法の運動をしている女性障害者などが連帯してくれた。女性障害者の視点での運動を強め、最終的に条例に「障害のある女性への複合差別」という言葉を入れることができた。運動をすることで、変えることができるという大きな自信になった。

公共財団法人JKA 補助事業完了のお知らせ CYCLE JKA Social Action