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  • 2024.04.15 (月)
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第2回 親・支援者と一緒に考える「自立生活」とは その①-1

ちゅうぶでは、グループホームリオの入居者を募集しており、そのための自立生活プログラム(ILP)を実施しています。「親支援者と考える自立生活とは」というテーマで、2回目です。今回は、ちゅうぶではどんな取り組みをしてきたのかということで、西川和男さんの話についてお姉さんの話です。

西川淳子(以下淳子とする):西川です。

私は学生時代、ちゅうぶが法人になる前からずっと関わってきました。西川和男は2つ違いの弟です。

私は障害者基幹相談支援センターで働いています。

弟が子どものとき、1960年代から人里離れた山奥に入所施設がどんどん建設されていました。当時は、親が介護するか、介護できなくなれば入所施設に入るかの二者択一でした。

和男は生まれてすぐに黄疸と高熱が出て、首が座らず、重度の脳性マヒと診断されました。両手が動かず、座ることも歩くこともできない。食事もトイレも着替えもお風呂も全部介護が必要です。

最初の施設入所

4歳の時に母が急死し、父が家を出て、祖母が私と弟と全盲の祖父の面倒を見ていたため、5歳の時に区役所から、施設入所を勧められました。

毎週日曜に祖母と面会に行きましたが、訓練中心で、ベッドの上か木製椅子に座る。施設内に学校がありましたが、2階で、自分で階段を登れないため学校には行けませんでした。訓練や手術をしてもよくなる見込みがないため、3年で退院させられました。

弟は車いすじゃなくて乳母車です。これが昔の1つ目の施設、病院みたいな、ベッドがたくさんあって、弟が木製の椅子に座っています。

2つ目の施設は、重症心身障害児施設

新しい施設ができたからと勧められ、山を切り崩してできたばかりの施設に入所しました。毎週日曜に祖母と面会に行きました。そこには重度の知的障害と肢体不自由が一緒に入っていました。

昼はデイルームで寝かされているだけ。食事はきざみ食のおかずと、それをご飯にまぜ、その上から薬がふりかけられているので、弟はすごく嫌がっていた。

トイレもおむつをさせられていました。もちろん自分でトイレを言うことができるにも関わらずにです。

夕食は15時半で、食べ終わったらすぐにベッドにあげられました。着替えは週2回のお風呂に入ったときだけで、毎日、天井を見ているだけの生活でした。

テレビは壊されていて、おもちゃを持って行っても自分で遊べません。

知的障害児が壁に頭をゴンゴンぶつけていたり、おむつの横から垂れ流していたり……。

職員と会話するとか何かをするとかはなかったと思います。クリスマス会はありましたが。

休みが終わって、別れる時には、家に帰りたがって大泣きしていました。とうとう、年末年始に外泊したまま、二度と、戻りませんでした。

後日区役所の人が訪問して、和男が車いすに座って足でブロックを組みたてているのを見て、「もっと重度だと思っていた」と話していました。

3つ目の施設(自宅近く)

ボランティアの人が毎週来て、字を教えてくれたり、外に連れ出してくれました。

訓練に通っていた施設に重度病棟ができることになり、入所しました。ちょうど大阪万博の年でした。和男は万博に行けなくて、悔しい思いをしました。

その施設で、初めて学校に行きました。施設の中に養護学校の分校がありました。3年生からスタートし、朝起きたら車いすに座り、訓練や学校にという生活でしたが、施設の方針で、毎週土日は外泊していました。

足で字を書いたり絵を描いて、勉強しました。図鑑を足でめくって読んでいました。トイレはおむつではなく、自分で言ってトイレしました。

広い施設内を、後ろ向きに自分の足で床を蹴って車いすで移動していました。

これは学校の中で字を書いているところとか、これは天王寺動物園に写生に行って、足で絵を描いていたり、これは卒業式、これは運動会で後ろ向きに足で蹴って走っているところです。

耳が聞こえにくい(17歳)

養護学校の担任から、「話をしていても、ボーっと外を見ていて、急に「あっハト」と言ったりする」「国語の授業中にボーっとしてることが多い」「ほかの生徒とのコミュニケーションや話し合って何かをすることは難しい」と言われました。

外泊してる時に、ふと「あれ、聞こえてるのかな」と思って、目覚まし時計の距離をだんだん遠くしながら聞こえているかどうかを調べました。3メートル位が限界だったように思います。

家族の会話は限られているし、私の声は大きいから、聞こえないということに気づきにくかったです。

そのころの象徴的な会話の様子です。

退園してしばらくして、介護者と一緒に施設に遊びに行った時の、病棟の婦長さんとの会話です

「和男君久しぶりね、元気でやってる?」 「うん」

「あ、そう、よかったね。今でもタイプライターやってるの?」 「うん」

「そう、偉いわね。お姉ちゃんやおばあちゃんは元気?」 「うん」

「お姉ちゃんもう働いてるの?」 「うん」

「もう結婚しはった?」 「うん」

「そう、そりゃよかったね。」

……実際には私は働いてないし、結婚もしてない。和男はこれまでの習慣で「うん」と言っているだけでした。

青い芝の会との出会い

20歳になったら成人施設に移らないといけいですが、弟は嫌がることはわかっていました。私も、弟を施設に入れたくありませんでした。

しかし、私一人で弟の介護をすることは無理でした。どうしたらよいか悩んでいた時に、大学で青い芝の会の人たちと出会いました。

青い芝の会っていうのは脳性まひの当事者の会だったのですが、「施設に入れたり家に閉じ込める親は敵だ」と言っていましたが、「私も入れたくて入れているのじゃない。じゃあどうしたらいいのですか?」という私の悩みに対して、はっきりと「一緒に活動しましょう」と言ってくれました。私には活動しない理由はありませんでした。

施設入所をめぐり区役所との闘い

次の施設には行かない弟の強い意志と入所させたい区役所との闘いがありました。

青い芝の会に出会って、ボランティアの介護を受けて、弟は、初めて地下鉄に乗り、喫茶店や映画館やレストランに入り、今までできなかったことをたくさん経験しました。

我慢しなくてもいい、あきらめなくてもいい道があることを知りました。 19歳で在宅に戻る決断をしました。しかし区役所は大反対でした。

成人施設の見学だけでもと言われ、和男と一緒に見に行きました。見学時に職員から「ここではずっとおむつをして、ベッドの上で寝たきりになります」と説明されます。区役所からは「家に帰ったら、施設に入れてほしいと頼んでも入れませんよ」としつこく言ってきましたが、和男も私も決意は揺るぎませんでした。

和男さんとのコミュニケーション

そのころの和男のコミュニケーション能力がどんなものだったかというと、石田氏……さきほど挨拶をした石田氏は当時介護に入っていたのですが、彼と和男の初めての会話は「て」だけでした。30分くらいの施設から自宅までの送り介護のとき、車いすを押していると、和男が「て、てて…」と何回も言う。

「何ですか?わかりません。」

「て、てて…」

「え、ですか?へですか?」

「て、て、て、てぇ!」

10分位してやっと彼の手が車いすの車輪にこすってるのに気がついたのです。

手を車いすの中に入れると、彼は喋るのをやめました。とにかく会話するのは難しかったです。

当時の生活

食事や洗濯や掃除や身の回りの準備などは家族である私がやっていました。金銭管理は自分で介護者と一緒に、郵便局に行って記帳や出し入れをしていました。年金から生活費をいくら入れるとか、私と交渉して決めていました。

昼の間、やることが決まってないので、毎日行きたいところへ行き、好きなようにぶらぶら過ごしていました。寝るのも遅くて起きるのも遅かったです。

当時の生活記録です。

「1978年5月1日……(二十歳くらいの頃)

今日は朝8時15分頃に起きました。9時に家を出発。難波へ行きました。難波への道順は知っていました。喫茶店ではコーヒーを飲みました。僕は一番初めてパチンコ出た。いっぱい出た。約1時間パチンコずっとしました。足がしんどかった。とんかつ食べた。アイスクリーム食べた。風呂へ今から行く。終わり」……パチンコは足でやっていました。介護者でパチンコの上手な人がいて、よく出る台というのを教えてもらっていたそうです。

やることを作っていく話合い

毎日何をするのかこれからどんな生活を作っていくのか、和男任せにして介護者が和男の言ったとおりにするだけじゃなく、一緒に考えていく場としての、本人を交えた会議をしました。

地域で生きていくために一番大切な社会性や人間関係を、ずっと施設の中で奪われてきたわけですから、どうしたらよいか、何ができるかを考えてきました。

一緒にやることを作っていこうと話し合って、言葉の学習を始めた。どんな言葉を知っていて、どんな言葉を知らないのか、幼児向けの言葉絵辞典を使ってチェックしたら、かなりの言葉を知らないということがわかりました。言葉を覚えるのと情報保障のために、指文字という、あいうえをの五十音の手話を使って会話をしました。

小学校に入る前の幼児が獲得する語彙数というは、5000語と言われています。ところが1978年、ちょうど和男二十歳くらいの頃に和男が知ってる言葉を調査したら、約1500語でした。

小学校では幼児の語彙数を元に文字を勉強しますが、和男は基本的な言葉、簡単な言葉を知らないことが多くて、絵本や1年生のドリルを見ても分からないことが多かったです。

基本的な簡単な言葉というのは、他の言葉に置きかえたり、説明するのが非常に難しいです。その言葉が示してる概念そのものがないからです。概念を獲得することを大切にしました。

「悔しい」 「めずらしい」をどうやって教えるか、国語辞典では「物事が思うとおりにならなかったり、あきらめがつかず、腹立たしくて残念だ」と出てきますが、「あきらめ」「腹立たしい」「残念だ」が分からないから、説明できないという状況です。ですから、経験や知ってる情報を例にして言葉を説明し、使い方を説明しました。 和男の場合は感音性難聴といって、脳性まひの人は多いのですが、難聴の中でも音は聞こえるけど、何の音かがわからない。喋っている音は聞こえるけど、何を喋っているかがわからないのです。ですから、知らない言葉が多かったのです。

①-2に続く…

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