Home  日々の活動  第3回 親・支援者と一緒に考える「自立生活」とは①-2

第3回 親・支援者と一緒に考える「自立生活」とは①-2

7.施設職員であった支援者の立場

肢体不自由児施設を振り返って

肢体不自由児施設であった支援者の立場と子どもの気持ちというところで、少し小坪さんとの掛け合いをしながら、いわゆる肢体不自由児施設というのはどんな感じだったんだろうなというのを共有化しながら、また皆さんからのご意見なんかも踏まえてお話させていただければと思います。

では今から小坪さんと、フロアの皆さんの意見を参考にさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

【施設収容で治療する方針】

おおよそ、1960年代から1970年代、収容の時代という感じですかね、主に。そのあと1980年代からいわゆるリハビリというもの、早期発見早期治療ということが言われるようになります。その中で、お母さんと一緒に母子入園したり、あるいは施設で短期入所したりして、成長してきた時代でした。

森園さんになると1990年代くらいかな?

小坪 :小坪です、よろしくお願いします。そうですね、僕が大手前整肢学園に入ったのが34年前で、僕と同い年の、今夢宙センターのスタッフをやっているUさんが当時まだ幼児だった森園くんを介助しながら一緒に歯磨きをしていたんだという話を未だにするので、多分同じ頃にいたのかもしれないなと思いますが、僕は森園くんについては記憶がまったくなくて……内村さんが何回か入られているときに森園くんと一緒になってて、僕は絡んでない……たぶん(笑い)。

大谷: (笑い)はい、そんな中で、色々出会いがあったわけであります。一番遠いところでいうと西川和男さんのお姉さん、もっと言うと、おばあちゃんとの出会いがあります。僕はそのとき施設で、ボランティア活動もしていて、その時にお会いしたのか、職員になってからお会いしたのか定かではないんですけど、僕はそのころ1970年代、施設のボランティアもやっていました。多分久保さんなんかと出会っていましたよね。その頃は入所長かったよね、久保さんでどれくらい入っていたかな。3年くらいですか。和男さんも3年くらいかな。もっと長かったかな、4年か5年くらいかな。

施設というと入所をイメージしがちですけど、森園くんも入ったことあると思いますが短期ですか?

森園: 半年を2回くらい、幼稚園のときには1年くらい入所しました。

大谷: 森園くんどこを手術したの?

森園: 股関節です。

大谷 :(西川)和男さんが……

西川淳子: 7年くらいです。

大谷: あの当時お姉ちゃんがよく外泊のときにおばあちゃんとお迎えに来てはったことは覚えています。

石田: お姉さんが高校生くらい?

大谷: いや、大学生やなかったかな。

西川淳子: ええと……何歳のときに会っていたか定かじゃなくて(笑い)。和男のところにはもう、私が中学校のときからずっと行っていたんで。

大谷: そうでしたね。当時の婦長さんはずいぶん気にかけていたようですけど。ご両親がいなかったものですから、どうするかというところで、進路については非常に気にかかりました。

西川 和男ですか? 和男はそのままずっと19歳まで入所していました。次の施設に移るまです。

【リハビリ施設への転換】

大谷: 1970年代くらいまでは入所というのが通常でした。入所を中心とした治療が行われてきたわけです。

1980年代になると早期発見早期治療ということで、いわゆる訓練施設、リハビリ施設としての大手前整肢学園という方針みたいなものが出てきました。早期発見早期治療ということで、お母さんと一緒に訓練するわけです。母子入園といって1ヶ月くらい一緒に入所して、お母さんが訓練方法を覚えてお家で訓練をするというような形で行われてきました。

1990年代も同じような形で入所を前提とせずにリハビリを中心とした施設になってきたという大きな流れがあることをご理解いただければと思います。

【施設で預かってもらう安心感】

当時は、施設で預かってもらったらリハビリもしてくれて、なにかあったら看護婦さんもお医者さんもみてくれるので安心やと、少しでも長く預かってほしいという親の気持ちというのがあった、1970年代はそういう状況でだったと思います。

でも、久保さんもそうでしたけど、早く帰りたいし、病院は嫌やし、本当にその通りだったと思います。

大手前整肢学園は都市部にあったので、土日は帰ることができたので、お父さんお母さんに迎えに来てもらって、土曜日に自宅に帰って、日曜日に大手前に戻る。それで、日曜日に大手前に帰ってきたらずっと泣いている、「家に帰りたい」ということだったんです。

しかし、西川和男さんはちょっとマイペースでしたね(笑い)。あんまり泣くとか……別れ際はどうでした?

西川淳子: 前のふたつの施設が酷かったので、そのときはすごく泣いてしました。

でも大手前は一番よかったんです。土日家に帰れるし、学校もあったり、わりと自由に、車いすに乗って過ごせたりしたので。だから、大手前ではあまり泣かなかったです。

大谷: マイペースな、彼なりの、主張もあったし、色々ね、ありましたね。

久保さんはどうですか? 早く帰りたかった?

久保: 私は泣いてた。

大谷: そうやろなぁ。よく泣いてましたね。

久保: はい。

大谷: 日曜日になったら泣いてましたよね。土曜日は元気なんですけどね。

【みんなと一緒にという子どもの気持ち】

親としては預かってくれて安心なんですけど、子どもの気持ちとはすれ違うことがあります。
社会との関係では、学校もそうですが、なかなか壁が厚い。だから久保さんも、養護学校が嫌やって言って、地元の夜間へ通ったのでしたよね?

石田: 市岡定時制高校

大谷: あれは、久保さんの考え方が強かったのかな。

小坪: 久保さんは、先輩で……

大谷: ああ、Yちゃんな。

小坪: 市岡高校に行ったその人のアドバイスで、という話をしておられたと思います。

大谷: 親の気持ちで預かっているんです。でも子どもは早く帰りたいし、同じような集団は嫌や、というのがあったんですね。

ですから、普通学校へ帰りたい、私はみんなのところへ帰りたいという願いが非常に強かったのが印象として残っています。和男さんはマイペースやったなあ。

石田: (笑い)

大谷: 重度の子やったら施設ということが、社会常識的な流れとしてありましたから。今は、どんな重度の子でも地域で生きるということが一つの権利として認められているようになってきましたけど、当時は1970年代とか1980年代とかはなかなかそういった受け皿も整備されていない状況でした。

久保さんみたいに、長く施設におると、普通にみんなの中で過ごしたいというニーズが非常に高かったですね。

みんなと同じように生活をしたいから、普通の高校、普通の中学校を目指すというのが、ごく当たり前に出て、「みんなと一緒にやりたいなあ」というのが、70年代の子どもたちの思いやっただと思います。

歴史的なひとつの転換期でもありましたね。

【施設で安全に暮らす方がいい】

私が印象に残っているのが、骨形成不全症という、骨が折れやすい子どもたちがいたんですね。

骨が折れやすいですから、親は病院にいてくれたら看護婦さんも、お医者さんもいるから、安心。でも、子どもにとっては、4歳くらいからずっと施設、15歳くらいまでずっと施設にいるわけなんです。

俺はずっと、一生このまま施設でなのか、外の世界をなんとか見たい、というような思いがあって、ちょうどその1970年代から80年代の頃でしたので、治療を終えた場合は、退院もいいのでないか、子どもも退院したい、親御さんは施設にいてもらった方が安心やけど、子どもも、職員の方言うから、仕方ないなということで、小学校6年生のときに中学へ見学に行ったんです。

校長先生のその子と親と私で面談受けたんですね。支援学校の先生もおられました。そのときの面談で校長先生が目の前で、「まあ、お気持ちはわかります。けれども、まあ、学校というところは事故の多いところです。こういうお子さんは、特に骨が折れやすいので、教育よりも命が大事なんじゃないですか。施設で安全に安心に暮らす方がいいんじゃないですか」って校長先生が言うたものですから、お母さんも「その通りや!」と賛同されました。

お母さんは、「あんたらは親やないから好き勝手言うけども、もしなんかあったら責任取ってくれるのか」ということを、言い返しまして、さすがの整肢学園のお医者さんも「うーん」ということになって、結局、その校長先生の一声でその夢が潰えたんですね。小学校6年生のときに。

その子3歳から入っているもんですから、12年くらい入っているんですよね。職員も学校の先生も、「あんたやったらいけるで」って言って、「行きたいんやったら行けるで」って、その子は、帰れると思っていたんです。

【心で血の涙を流す】

男子更衣室って2階にあるんですが、教室も2階にあって、その横にあったんです。

ずーっと、朝僕ら学校に行くと、ずーっと窓から外を見ているんです。ずーっと。「おはよう」って言っても振り返りもしない。あのときが初めてですよ。やっぱり、血の涙を流すことがあるんやなあって、思いました。

背中を見てたらわかるんです、本当に夢破れて、やるせない気持ちで、血の涙を流しているなあ、心で血の涙を流しているなあっていうのが、すごくよくわかって、言葉を掛けるのも気を遣うくらい、夢を砕かれたんですね。

立ち直るのも1年か1年半くらいかかりました。それから、高校受験のときに「俺は絶対、今度は高校は外へ行くんや」って言うて、普通高校を受験して、クリアして、「とにかく俺は行く」って親も説得して、出られるようになりました。

診療所に勤めることができて、親にも「まあええか」って納得してもらって、一人で出たんですけど、事故があって、命を永らえることができなかったんですが、そういう子も自立して暮らせるようになった時代が1980年代だったと思います。

それくらい苦労しないと、地域で生きるというのが、親も社会も、なかなかそれが当たり前ではなかったわけです。

それがちょっとずつ変わってくるのが、東さんの時代、あるいは森園くんの時代、若い世代にそういうところが受け継がれていているのかなと思いますが、どんな感じでしたか? 

【失敗事例を教訓にした支援】

小坪: ナビの代表でもある尾上さんの話を聞くと、尾上さんは、「大手前のワーカーさんとか先生とかの協力があったから中学校から地元の学校に戻るという決断ができたんだ」ってよく言っています。失敗の経験を活かして、支援されたということがあったのかと思います。

尾上さんがよく言われているのが、養護学校の先生も一緒に面談に行って、校長先生からは色々言われたみたいなんですけども、「歩行練習もしているけどもこける練習もしているから何かあっても大丈夫だ」ということを当時の学校の担任が言ってくれて、「何かあっても耐えられるようにこの子は訓練している」、(実際はしてないけど(笑い))。その支援があったから、普通学校に行けたんだというお話をされるので、失敗談が大手前の中で活きているのかなというふうに話を聞いていて思いました。

大谷: 久保さんのときはどうだったか?定時制高校に行くときに学校の先生が一緒について行ってくれたのですよね?

石田: 市岡高校の入学のときは、誰がついて行ったんですか?学校の先生とか、誰か一緒だった?

久保: 仲のいい先生。結婚式にも来てくれた先生。
大谷: あの頃は支援学校の先生も一緒にタッグを組んで、地域へ帰るのを支援していた覚えがあります。小坪さんは、親には何も言われなかった?支援学校行けとか言わへんかった?

【障害があっても普通学校へという流れ】

小坪: 支援学校に行けとは言われなかったですね。「普通学校に行きたい」と言った覚えもあんまりないです。当時、四つん這いとかしていたので、「けがしたらどうするんか?」とか、「事故があったらどうするんか?」とか、言われた気がしますが、すごく揉めた記憶はあんまりなくて、小学校の頃は、四つん這いしていたら健常者の方に手を踏まれるので、スリッパを手にはめて階段を上がったりとかしていました。

大谷: 1980年代がひとつのポイントだったと思います。大阪という特殊性もあったと思います。同和推進校が大阪府内には結構あって、障害があっても普通の学校へという大きな流れがあったものですから、他県に比べると、普通学校へ入りやすいというのもひとつの要因ですね。

小坪: 三歳くらいから大手前に関わってリハビリをしていて、通園とかもしているんですけど、高槻に引っ越すときにどこの小学校がいいのかというのを、大谷先生がアドバイスをしてくれたというのは親が言っていました。

大谷: 中学校は?

小坪: 普通の地元の中学校に行って、高校は支援学校に行きました。

大谷: それは学力面とか?(笑い)

小坪: 学力面と、いじめがあったとか。僕は、大手前に10歳で入っているのですが、勉強してなかったので、授業についていけなくなって、勉強がわからないとか、いろいろあって、中学校でいじめられたりもしていて、人に何かを頼むっていうのがしんどくなったので、支援学校に行こうということになりました。

普通学校にずっと通っていたら、どうなっていたのかなっていうのは、今は思います。

【ボイタ法】

小坪:僕は、3歳からボイタ法ずっとやっていて、してなかったらもっと重度になったと思っています。いつ手術をしていてもおかしくないって、ずっと主治医から言われていましたが、手術をせずに済んでいるのはボイタ法のおかげだっていうのを親もよく言っていて、良かったのと思います。

大谷: つまり、70年代ぐらいまではリハビリっていうのは、特別に訓練方法っていうのはあるわけじゃなくって、脚の拘縮が固まっていたら伸ばす、あるいは筋力がなければ筋力つける、というように、交通事故の怪我で、機能回復するのと同じようなレベルの訓練しかなかったわけなんです。

それが80年代に「早期発見早期治療」というようなことが言われだして、訓練を受けると、障害がより軽くなるんだということで席巻されるようになったわけです。

そんな風潮の中で育ったために、今の話になったのかなと思っています。

「今ある」っていうのは、そういう歴史性みたいなのがあって、今があるということは、理解をしておいていただいたらいいのかなと思います。

【運動の成果があって今がある】

今の若い障害のある方は今の状況が前提で、活動しているわけですが、そこに到達するまでに色々な、親の壁とか社会の壁とかがあって、自立生活っていうのが少し見えるようになってきたなと思います。 運動の成果って言ったらおかしいですが、そういう取り組みがあって、今があるということを、やっぱり改めて思うところでもあります。

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