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相模原事件死刑判決について

相模原事件死刑判決 この判決に大きな矛盾を感じざるをえない

予想通り、死刑判決が出た。これだけ何の罪もないたくさんの人を殺したのだから、当然と言えば当然だが、果たしてこれで良かったのだろうか?この裁判は、人の命はどんな人でも価値があるのかどうかが問われる裁判だったと思う。それなのに、植松被告には死刑判決が出た。つまり、この世には、命を奪った方がいい人間がいると、司法が、裁判官や裁判員や社会が認めてしまった。この大きな事件をたった2ヶ月で、よりじっくりと背景や原因を深めることなく終わらせてしまう事に、何か大きな力を感じてしまう。
裁判の中で明らかになったのは、植松被告が働き始めてから二年間で変わったと言う事。検察官が、「職員は人として扱っていない。そういった経験を経て重度障害者はいらないと思ったのか」と聞いたら、被告は「はい」と言った。色々な意味で影響を受けやすく、目立ちたがりで、かつ深く考えるのが苦手で、大麻の合法化を訴え、フリーメイソンやイルミナティにのめり込み、非常に偏った考え方を持っていた。それゆえ短絡的に社会の役に立つ方法だと思いこんだのだろう。としたら、やはり、植松被告が働いた施設での支援のあり方が、もっともっと掘り下げられなければならなかったはずだ。しかし、法廷では少ししか触れられなかった。それが本当に残念に思う。
 朝日新聞の記事では、以下のように書かれていた。


植松被告は、やまゆり園で働き始めた当初は、自分なりにやりがいを感じていたようだ。
「楽な仕事で楽しい」「障害者はかわいい」朗読された友人らの調書によると、被告は複数の友人にこう語っている。ある友人には、利用者について「こうしたら喜んでくれる」と身ぶりを交えて話した。別の友人には「暴れると止めるのが大変」とこぼしつつ「慣れるとかわいいんだよね」と言った。就職活動で悩んでいる後輩には「仕事ってお金のためじゃなくやりがいだと思う。今の仕事は自分にとって天職」とまで言った。
だが園での仕事が2年目に入った頃から、言動が変わり始めた。ある友人は、被告が園の利用者について「かわいそう」「食べる食事など人間として扱われていない」と言うのを聞いた。別の友人は、時期は覚えていないが、被告が「職員が死んだ魚のような目をして希望なく働いている」「職員が障害者の頭をたたいたのを見た」と話すのを聞いた。さらに、精神鑑定医が公判で明らかにしたエピソードは、「利用者とすれ違いざまに軽い暴力をふるう職員がいた。働き始めた当初、被告は「暴力はよくない」と同僚らに意見した。だが「最初だから思うよね」「2、3年後にもそれがいけないと言えるか楽しみだ」と言われた。「家族が利用者を見捨てている。ほとんど面会に来ない人がいる。入浴介護中に溺れた利用者を助けたのにお礼を言われなかった。」

人間として扱われていない、暴力はよくないと思っていた被告が、なぜ、その後に障害者への不当な偏見を募らせることになったのかがとても大事な点である。しかし、裁判ではこれらの出来事について、同僚や園長らに証言を求め、当時の状況や背景を確認する場面はなかった。唯一、入倉かおる園長(62)は精神鑑定医の証言を受けての取材に「職員の暴力は把握していない」と話した。

1月27日の第9回公判で、検察官が、「やまゆり園で働き、驚いたことは何か」と問いかけた時に、職員にも言及した。「口調が命令的。人に接する時の口調じゃなかった」「人として扱っていないと思った」「食事は流動食で、職員は流し込むというような状況。人の食事というよりは流し込むだけの作業に見えた」
利用者に暴力を振るう職員がいたのか問われ「聞いたことがあります」と答えた。聞いただけかと畳み掛けられると、「うーん、どうかな」とかわしたが、被告自身は暴力を振るったことがあるのかと問われて「無駄な暴力を振るったことはありません」と言った。
検察官は、「無駄とは何か」と問うた。被告は「動物と同じでしつけと思ったが、改善しなかった。甘やかしすぎて食事を食べられなくなった人に促したが、食べることができなかった」と言った。食べるように、鼻先を小突いたことがあったという。また、他の職員について「便に触る人をトイレで座らせようとした時に、しつけをしたと聞きました」とも語った。 (以上朝日新聞の記事より)

検察側は、園での勤務経験が差別意識の原因の一つになったと主張している。しかし、裁判では、施設の問題にはこの部分くらいしか触れられていない。同僚の証言もなく、ひょっとしたら、自分で勝手に作り上げた部分があるかもしれない。遺族の事を考えて、裁判ではこれ以上深く調べると更に傷つけるからと検察側が配慮したのかもしれない。けれど、施設内では、明らかに不適切な支援があり、植松被告はそこに悩みながら、彼なりの解決策を見いだしてしまった。重度障害者は死ぬべきだと。そうではない解決策が、入所施設の中では見つけることができなかった。もちろん、植松被告の極論に対して、そんなことはないと取っ組み合いになった職員もいたとの事。職員全員が不適切な支援をしていたわけではないだろう。しかし、彼の悩みを共有し、支援のあり方について、重度障害者の人権について、常に学び実践できる環境であったなら、いや、更に地域移行を進め、本人も家族も生き生きと人生を送ることができるとわかっていたら、ひょっとしたら違う未来になっていたかもしれない。これはやまゆり園だけの問題ではなく、私たち一人一人に問われ、突きつけられた課題でもある。それゆえに、たった2ヶ月で死刑判決がくだされて、面会や手紙のやりとりも厳しく制限され、これ以上時間をかけて被告のことを知り、変えようとする取り組みも許されなくなる。支援のあり方について、検証も不十分なまま、規模を小さくしただけの施設をまた作ろうとしていることに、この事件の本質が見える気がする。
 植松被告は、死刑になってはいけない。国民の税金を使って、一生刑務所で、自分が犯した罪と向き合い、生きるとは何か、命の価値とは何かを考え続けるべきだ。どんな人間でも、生きる価値があることを、人間らしく生きる権利があることを、植松被告に一生かけてわからせ、罪を償わせるべきであると思う。

ナビ 西川

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