イタリアのインクルーシブはほんま? ~イタリア3か月滞在で見た教育と精神医療 &インクルーシブ教育研究者のコラボ企画~

インクルーシブ教育と日本の課題

ちゅうぶで企画した学習会では、イタリアの教育や精神保健の実践、そして世界のインクルーシブ教育の流れについて学んだ。
2026年6月6日(土)13時~17時
前半は、昨年9月から12月までの約3か月間イタリアに滞在し、学校や精神保健センター、障害者団体などを訪ねた上田哲郎さん・畠さんからの報告。
後半は東洋大学客員研究員の一木玲子さんから、世界のインクルーシブ教育の動向と日本の課題についての報告があった。
イタリアの実践を知ることは、単に「海外ではこんなことをやっています」という話ではなく、日本の教育や地域生活支援のあり方を問い直すことでもあった。
特に今回は、「障害がある人を地域から切り離さない」という視点が、教育にも精神保健にも共通して流れていることがとても印象に残った。
上田さんたちがイタリアを訪ねた理由

上田さんがイタリアに関心を持った背景には、日本の教育や精神保健に対する強い問題意識があったという。
日本では、障害のある子どもが地域の学校で学ぶことは、今もなお当たり前ではなく、本人や家族、学校側の努力がかなり必要になることも多い。精神保健の分野でも、地域でどう暮らし続けるかより、入院や施設が前提になりやすい現実がある。
一方イタリアは、精神病院の解体や地域生活支援、障害のある子どもが地域の学校で学ぶ仕組みを進めてきた国として知られている。
上田さんは、「本当にそんな社会が成り立っているのか、自分の目で見てみたい」と思い、イタリア行きを決めたそうだ。滞在中はトレント、ローマ、トリエステ、ボローニャなどをまわり、学校、精神保健センター、協同組合、障害者団体、当事者や家族など、さまざまな人たちから話を聞いた。
イタリアは理想郷ではない。でも、日本とは違った
報告の中で印象的だったのは、上田さんが「イタリアは理想郷ではない」とはっきり言っていたことだった。イタリアには養護学校・支援学校がまったくないわけではなく、実際にローマでは支援学校も見学したというし、精神科病床もゼロではない。
ボローニャでは1か月ほど療養できる病院もあったそうだ。
でも、それでも日本と大きく違うのは、障害のある子どもが地域の学校にいることが特別ではなくなっていること、そして精神保健の分野でも「どう病院にとどめるか」ではなく、「どう地域に戻していくか」を前提に仕組みがつくられていることだった。
トレントでは、教育長が「この州には養護学校はない」と話し、小中学校だけでなく高校にも知的障害のある生徒が在籍していることが自然に語られていたという。
精神保健の分野でも、総合病院に少数の精神科病床を置きつつ、長期入院ではなく、短期間で退院し、その後は地域で支える仕組みが整えられていた。
「一緒に育つこと」が偏見を減らす
上田さんの話の中で、とても印象に残った言葉がある。「一緒に育つことは、無知をなくし、偏見を減らし、差別を解消する」という言葉だ。上田さん自身、養護学校から地域の小学校へ転校し、中学校、高校、大学へと進んできた経験がある。その中で、人と一緒に育つことの意味を身をもって感じてきたからこそ、この言葉には重みがあった。
分けられてしまえば、出会うはずの人に出会えない。関わる中で気づくことも、ぶつかることも、助け合うことも減ってしまう。障害のある人のことを「知らないまま」大人になる人が増えれば、偏見や思い込みはなくならない。だからこそ、子どもの頃から一緒に育つことに意味があるのだと思う。
トリエステで見た「地域で生きるのが当たり前」の空気
上田さんたちは、バザーリア改革で知られるトリエステも訪れている。そこでは、元精神病院の広大な敷地が公園として開かれ、精神保健センターのスタッフたちが「インクルーシブであることは当たり前」と語っていたという。制度の話だけを聞くと、日本でも「地域移行」「地域生活支援」という言葉はたくさん出てくる。
でも、実際には地域で暮らすことよりも、病院や施設の中でどう支えるかが先に考えられてしまうことも少なくない。そういう日本の現状を思うと、「地域で生きるのが当たり前」という前提で仕組みがつくられていること自体が、イタリアとの大きな違いだなと感じた。
世界ではインクルーシブ教育が当たり前になりつつある

後半の一木さんの報告では、タジキスタン、モンゴル、イタリアなどの事例が紹介された。印象的だったのは、経済的に豊かとは言えない国々でも、「支援学校を増やす」のではなく、「インクルーシブ教育を進める」という方向を打ち出していることだった。
タジキスタンやモンゴルでは、障害のある子どもの就学率がまだ十分ではない現実もある。それでも国としては、障害のある子どもを地域の学校から排除しない方向に進もうとしている。
日本では、いまだに「この子にはこっちの方が合っている」「この子のためには別の場が必要」と、分けることが支援として語られがちやけど、世界の流れはもうそこではないのだと感じた。
イタリアでは、教育と地域生活がつながっている
一木さんの話で大きかったのは、イタリアではインクルーシブ教育が教育だけで完結していないことだった。
障害者運動、脱施設、地域生活支援、本人の自己決定を支える仕組みが、全部つながっている。イタリアの障害者団体や家族団体は、政策づくりにも深く関わっていて、インクルージョンを「自己決定」と「他者との平等」と位置づけているという。
重度障害者の脱施設を進める法律や、本人が自分の人生や生活を決めることを中心に据えた法制度も整えられてきた。
つまり、学校で一緒に学ぶことと、地域で一緒に暮らすことは、別々の話ではないということやと思う。学校だけインクルーシブでも、卒業したら施設、地域では分断、では意味がない。教育と暮らしがちゃんとつながっていることが大事なんやと改めて感じた。
インクルーシブ教育は、社会そのものを変える
一木さんの報告の中で、特に印象に残ったのは、「学校でインクルーシブ教育をすると、社会に障害者の存在を示すことになる」というイタリアの関係者の言葉だった。
子どもの頃から一緒に学んでいれば、「障害のある人が地域にいるのは当たり前」になる。逆に、最初から分けられていたら、「知らない」「出会わない」「だから想像もできない」という社会になってしまう。インクルーシブ教育は、単に学校の中の配慮の話ではなく、社会の価値観を変える土台なんやと思う。
日本の課題は、やっぱり「分離ありき」であること
一木さんは、日本の課題として、「制度がどれだけ整っても、分離を前提にしていること」を挙げていた。これは本当にその通りやと思った。学校の中でも外でも、まず分ける。そのうえで交流しよう、共生しようと言う。でも、それは本当の意味でのインクルージョンなのだろうか。
紹介されていた石川県の事例も、特別支援学校高等部を高校の敷地内に移し、交流を進めるというものだったけど、それは「分離を前提にした統合」であって、同じ場で共に学ぶこととはやっぱり違う。
さらに日本の学校は、暗記中心の一斉試験や、「学校の枠に適応できるか」が重視されやすい。そこから外れる子どもは、支援学級や支援学校、別室、あるいは不登校支援の場など、どんどん分けられていく。もちろん必要な支援はいる。でも、「学校側が変わる」のではなく、「合わない子どもを別の場所へ」となりやすい今の流れには、やっぱり強い違和感がある。
「日本でどう実現していくか」を考えたい

今回の学習会では、イタリアの教育や精神保健の実践を通して、分けないことの意味や、地域で暮らし続けるための仕組み、そしてそれを支える価値観について学ぶことができた。イタリアをそのまま理想化するのではなく、課題も含めて見ながら、それでも「分離ではなく、共に生きる方向へ進むことはできる」と感じられたことが大きかった。
ただ、日本は遅れている、分離前提だからだめだ、で終わらせてしまうのは少し違う気もしている。日本にも、地域で共に学ぶ実践や、本人の暮らしを地域で支えようとする取り組みは確かにあるし、そこには日本の中で積み重ねられてきた大事な実践がある。まずはそうした実践をきちんと見つめて、広げていくことが必要だと思う。
その上で、海外の好事例をそのまま真似するのではなく、日本の制度や学校現場、地域の実情の中で、何をどう活かしていけるのかを考えていくことが大事なのではないだろうか。
障害があるから分けるのではなく、誰もが地域の中で学び、暮らし、自分の人生を選び取っていける社会に近づくために、日本で何ができるのか。今回の学習会は、そのことを考える大きなヒントをくれる時間だった。 (文責:ナビ東 佳実)
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