重度脳性まひの弟の自立まで その4
―――意思ある所に道は開ける
弟が18歳になり、成人施設に移らないといけない時期になった。
弟は当時三つ目の施設に入っていて、そこで初めて遅ればせながら義務教育を受けた。そして、家から歩いて行ける距離にあったので、毎週末は外泊で家に帰ってきた。弟は足で字や絵を書けるようになり、プロ野球の本も足でめくって読んでいた。新幹線で修学旅行に行った事も楽しい思い出だった。しかし、施設には中学までしかなく、卒業したらまた訓練しかない毎日になった。それでも、朝起きると車いすにすわり、自分で足で後ろ向きに進み、広い施設の中を自由に動き回っていた。毎朝施設の玄関で、まだ誰も読んでいない新聞を足でめくって読んでいた。一日中天井を見続ける生活よりは、うんとましだった。
私はどうしたら弟を家に連れて帰れるか、取っ掛かりを探そうと、大学に入ってから障害者関係のサークルに入った。しかし、そこでは施設にボランティアに行ったり本で発達保障について学習する事はあっても、施設を出るための話はできなかった。誰も施設を否定や批判をしなかった。むしろ肯定的だった。
私は中学の時から力はあった方だった。差し込み便器がなかったから、トイレの度に弟を抱えてトイレに連れて行っていた。風呂も私が抱えて入れていた。家の前の公園では、滑り台に抱えて登った。でも施設から家に連れて帰っても、毎日毎日どこにも行かず、私一人でずっと介護することはあまりにも展望がなさすぎた。心中する場面を想像しては泣いていた。
そんな時に、青い芝の会と出会った。大学に、解放講座のビラが貼ってあったのだ。サークルの先輩からは、あそこには関わらない方が良いと言われた。私は、その言葉の意味もわからず、とにもかくにも藁をもつかむ想いで、行ってみた。
参加者は私一人だった。
あれは、たぶん「何色の世界」と言う映画上映だったと思う。「親は敵だ」と言う話もあり、映画のあとに感想を聞かれた。映画の内容はほとんど覚えてないし、特に私にとってインパクトがあったようには覚えてない。私がその時に言ったのは、「親は敵だと言うけど、私だって弟を施設から出したい、何とかしたいと思っているけど、どうすることも出来ない。どうしたらいいのか?」。それに対しての返事はたった一言「一緒にやりましょう。」だった。私は何の躊躇もなかった。何故なら具体的に道が示されたのはこれが初めてだったから。
後にわかったのだが、解放講座を主催した人達や場所は、当時三里塚闘争を行っていた学生運動家たちが集まる所だった。
しかし、私が連れていかれたのは、そんな場所ではなかった。重度の脳性まひで言語障害がある男性が一人暮らしをしているアパートだった。学生がグループゴリラと言う健全者組織に所属し、青い芝の会の障害者の活動を保障するために介護を担っていたのだった。
弟も青い芝の会に入った。当時青い芝の会では、弟と同じように歩くことも座ることも、トイレや飲食もできない、言語障害がある、重度の脳性麻痺の障害者が多かった。修学免除で全く教育を受けていない人もいた。その人たちが仲間を外に出そうと、訪問し、実際に介護をつけて、色々な所に行けるようにするのだ。あの時、もし活動してる障害者が重度ではなく、口先だけならば私はグループゴリラに入っていなかっただろう。本当に重度の障害者と一緒に街を生活を変えようとしているのがわかったから、ここしかないと思った。
弟は、耳がきこえにくかったから、障害者同士の話し合いには参加していてもほとんど意味がわからなかったと思う。しかし、弟は、毎週末の外泊は、家ではなく、男性ゴリラの介護で、事務所(事務所と言っても文化住宅の一室、みなその和室で寝転んで話し合っていたのだ)で泊った。そして私は弟以外の介護に入った。介護が足りなければ授業をさぼって保障した。祖母が「あんたは弟がいるんやから、他の人の介護に入ること無いんじゃないの」とよく言っていたが、私にとっては、弟が介護を受けることと私が他の障害者の介護をすることは、決して切り離せないと思っていた。
あの頃、弟は、決してできないと思っていた、電車に乗って、喫茶店やレストランや映画館やパチンコやにも入った。絶対できないとあきらめていたのは一体何だったんだろう。私は一人暮らしをしている活動家の介護にも入った。
障害者の介護で電車に乗るのは、毎回私にとっては、ドキドキで決して慣れる事はなかった。何故なら、階段の所で力がありそうな男性を3人つかまえなくてはならない。大きな声で通りすぎようとする乗客に「すみません、下に降りたいので手伝ってくださーい」とすかさず声をかける。一番嫌なのは、乗客が少なくなる夜遅い時間。地下鉄から降りてダッシュで階段まで走る。乗客が階段にくるまえにたどり着かないと誰もいなくなるから。駅員は今と違って全く手伝ってくれないから、特に下りのエスカレーターは怖かった。
大阪青い芝の会の障害者の人たちは、訪問や会議や交渉の後に、外食やお酒を飲みに行ったり、映画を見にいったりしていた。活動することによって、遊びに行ったりできる、それがあったから重度の障害者が活動に参加でき、重度の障害者を中心にした運動が成り立ったんだと思う。実際に、弟は色々な所に行けてとても喜んでいた。弟が喜ばなかったら、私は辞めていたと思う。何故なら私が探していたのは、障害者を利用するだけの運動ではなく、実際に障害者が地域で色々な事ができる生活が実現できるように取り組む運動だったから。その頃の私にとって、それは運動かどうかはどうでもよかったかもしれない。具体的に、弟の生活をどう変えてくれるか、そこが一番大事だった。今でもそれは変わらない。
在宅訪問に行くと、風呂に何年も入っていない人、庭のたらいで体を洗っていた人、何年も部屋から出たことがない人がいた。その人と銭湯に行く、その人と外に出る。たまたま私や弟が少し早く青い芝の会に出会っただけで、まだまだ社会から置き去りにされた障害者がたくさんいた。私は今でも、その頃に関わったがその後引っ越して和歌山の施設に入った障害者の事が忘れられない。施設に入ってしばらくは何回か面会に行ったが、私も弟や祖母の介護に追われ、結婚して子育てと仕事に追われて、会いに行けなくなった。彼女が引っ越さなかったら、きっとそのあと立ち上げたグループホームに入り、自立できていたのに。とても残念だ。望んだ物との出会いのタイミング、一旦つかんだチャンスは何がなんでも離さない、後先を考えない、それくらいの強い意志がなければ、本当に自分が望んだ人生を送れないのが、当時の障害者の置かれていた状況だった。
つづく
まとめ
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